両親の転勤が多く、終戦は岡崎高等女学校で迎えました。当時は女子の進学校は全国的にもほとんどありませんでした。高校入学前の東京にいたころ、母が鳩山家の専門学校被服科の教育法に大変感心し注目していました。そして自分もそのような学校で学びたいと思っていたところ、この学校に巡りあい終戦後の昭和21年春に入学しました。
当時の入学試験の内容はすっかり忘れてしまいましたが、記憶に残っている問題が二問あります。一つは
「露をだに 厭う大和の女郎花 ふるあめりかに 袖を濡らさじ」
を解釈する問題です。いかにもアメリカに敗れた国にふさわしい様な出題でした。
当時の若い遊女の辞世の歌はどこかで読んだことを思い出しその心意気やあわれさ、いさぎよさ、そして「雨」と「あめりか」を
かけたところが印象深く覚えていました。もう一問は「ローマ字で住所と氏名を書く」という問題でしたでしょうか。
現代でしたら幼稚な問題ですが、戦争中の英語は敵国語として軽んじられていましたので、どれだけの方が正解されたか・・・。
大戦中、母の従姉妹がアメリカオレゴン州の、強制収容所におりましたが、終戦後私たち家族を案じて救援物資を送ってくれたため、
その手紙の表書きの英語を母に頼まれておりました。そのような縁に助けられ無事入学できました。
入学後、家族は関西へ引っ越したので寮生活となりました。ふかしたお芋2本を夕食で食べているところを見て、
だい先生は「あなたたちは、これからしっかり学ばなければいけない。栄養バランスを考えて食べなさい。」とおっしゃって裏庭から
野菜を採って食べさせてくれました。だい先生は、そこにおられるだけで威厳と品格を備えておられ、お姿を拝見するだけで身の引きしまる思いをいたしました。
和裁、洋裁といった実技の授業は大変厳しく、また斬新なことばかりでした。それ以外にも「心理学」や「経済学」など
初めて聞く教科もあり最高学府を出られた教授の授業は大変むずかしく、また新鮮さ、楽しさと共にアカデミックな世界へ導いてくださいました。
卒業後、関西へ行き私も教鞭をとりました。安城女子専門学校で寺部だい先生から学んだことを今でも誇りに思い改めて感謝をしております。
学校のますますのご繁栄を心からお祈りいたします。
「安城学園創立100周年の歩みと寺部だい生誕130周年展」
日程 2012年11月17日(土)−11月23日(金)
時間 10:00−16:30
会場 安城市文化センター
〒446-0041 安城市桜町17番11号
チラシはこちら(PDFファイル)