第3部 国家と超域テロリズム
第1章 日本赤軍と北朝鮮 検証若王子事件事件
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政府機関が麻薬、覚醒剤の密輸・販売、偽ドル札製造、同使用、韓国要人暗殺、日本人など外国人誘拐に関与していたことは、内外の捜査機関の調査でほぼ全貌が明らかになった。しかし、こうした国家の「犯罪」が「革命工作」の名の下に、日本赤軍やフィリピンの新人民軍など左翼ゲリラ、アジアの暴力団との協力の下に、行われていたことなど細部は完全解明に至っていない。犯罪やテロと「革命工作」を合体させた超域ネットワークが地球上存在することがあきらになったのは、1986年にフィリピンの首都マニラ郊外で起きた「若王子事件」である。
この事件は日本赤軍[1]が、地元共産ゲリラ・新人民軍、台湾最大の暴力団・竹聯幇、北朝鮮を巻き込んで引き起こした身代金略取目的誘拐事件であった、とみられる。北朝鮮が海外を舞台に引き起こした大小の「革命工作」は金日成・主席存命中から実施され、金正日・総書記(国防委員長)が、指導していた。[2]
三井物産マニラ支店長、若王子信行氏が誘拐されたのは1986年11月15日のことだ。北朝鮮当局は2002年まで「革命工作」という名の国家犯罪に関与した事実を否定してきたが、同年秋、訪朝した小泉純一郎・首相に金正日・総書記が日本人拉致の事実を確認し謝罪したこと、北朝鮮工作船の活動を認め、今後破壊工作をさせないことを約束したことによって、それまでの北朝鮮の犯罪行為が北朝鮮最高首脳によって公式に確認された。
若王子氏の誘拐は、日本赤軍がフィリピンの共産ゲリラ「新人民軍」と組んでの犯行であった。それは日比両国公安機関の調べで既に明らかになっている。[3]若王子氏は誘拐されたとき、日本語の単語が犯人側から、出たので、犯人は日本人であると思っていた、という。[4]また、犯人側に支払われた米ドル札は中古紙幣にもかかわらず、番号が全部控えてあったため、逮捕された日本赤軍の犯人が所持していた米ドル札が、身代金として支払われた札の一部であることが特定できた。
「若王子事件」当時、北朝鮮はアジアや欧州で破壊工作を進め、日本赤軍もそれに協力して活動していた、ようだ。
金正日書記(当時)は1970年代半ば、対南(韓国)工作のため、日本人拉致を指示し、北側工作員が1977年から1983年まで少なくとも13人の日本人を拉致した。1983年7月、「よど号グループ」の妻が欧州にでかけ、北朝鮮工作員とともに、有本恵子さんを言葉巧みに誘拐し北朝鮮に拉致した。
83年10月9日、ビルマ(ミャンマー)の首都ラングーン(ヤンゴン)のアウンサン殉難者廟で、同国訪問中の全斗煥・韓国大統領暗殺未遂事件が発生した。廟内で大統領の到着を待っていた徐錫俊副首相兼経済企画院長官、李範錫外相ら韓国側17人とミャンマー高官4人が爆死した。ビルマ政府は北朝鮮人民軍の特殊部隊将校、ジン・モ少佐とカン・ミンチョル大尉が犯人であると公表、11月北朝鮮との国交を断絶した。到着時間が予定より遅れた全大統領は、爆死を免れた。この爆弾テロは金正日書記=当時=指示の下にチェ・チャンス少将の命令で実行された。
日本赤軍は1983年ごろから東南アジア各国を中心に「反戦、反米、民主」などを共通目標とした統一戦線工作を進め、テロを実行する非公然組織づくりを始めた。
1986年11月15日、フィリピンの首都マニラ郊外のゴルフ場でゴルフを終えた三井物産マニラ支店長、若王子信行氏(当時52)は帰途、丈の高いサトウキビが道の両脇をびっしり覆った人気のない公道で、武装した5人組の男に車を止められ、誘拐された。このとき、カンルーバン・ゴルフ場でプレーをしていた若王子氏を見張り、誘拐犯の新人民軍総司令部全国特別作戦本部所属のフロレンシオ・モンテラ=1991年1月逮捕=に出発時刻など動向を克明に連絡していたのが、日本赤軍の泉水博(当時50)である。モンテラら誘拐実行犯はクリスという名の指揮官の下に、若王子氏を襲い、誘拐した。犯人グループは若王子氏を監禁し身代金を執拗に要求、奪取した。泉水は日本赤軍によるダッカの日航機ハイジャック事件で人質となった乗員、乗客と交換に超法規的措置で、釈放された強盗殺人犯で、その後日本赤軍コマンドとなり1988年にマニラで逮捕された。泉水はマニラの中華街ビンドノ地区の安宿に身を潜め、竹聯幇のメンバーがボディーガードを務めていた。竹聯幇の幹部とマニラ市内(ロハス通り)の日本料理屋で接触していた。[5]
モンテラの自白によると、新人民軍は1986年初めから資金と武器調達を目的として「デルタ部隊」を設立、「オペレーション・カスタマー(顧客作戦)」というなんとも人を食った名前の誘拐計画をたてた。第1号の犠牲者が若王子氏だった。日本赤軍は1974年「翻訳作戦」と名付けた身代金目的の誘拐事件を旧西ドイツで計画、未遂に終わっており、「若王子事件」は両者の資金調達の思惑が一致した「作戦」であった。若王子事件をモデルにした小説「暗闇商人」の中で作家深田佑介氏は日本赤軍に新人民軍を紹介したのは北朝鮮である、との解釈を示している。 誘拐犯は監禁中の若王子氏の写真を共同通信マニラ支局に送りつけるなど、日本のマスコミ事情に奇妙なほど詳しかった。共同通信はマスコミの中で日本赤軍に最も食い込んでいた社の一つで、日本赤軍が、米国系ホテルの一角にあった共同マニラ支局の住所を知っていたのは当然であった。一般のフィリピン人には共同通信の名は当時それほど知られていなかった。
日本赤軍の最高幹部であった丸岡修(37)は香港やマニラから(若王子氏誘拐)身代金要求の脅迫状を送るなどして連絡役を務めた。丸岡は海外日本赤軍コマンドの中心人物で1972年5月に起きたイスラエル・テルアビブ・ロッド空港乱射事件や77年9月のダッカ空港・日航ハイジャック事件に加わったとして、殺人、航空機強取、不法逮捕監禁容疑で指名手配されていた。1987年11月日本にひそかに帰って潜伏しているのが見つかり逮捕された。丸岡が逮捕されたとき所持していた札入れの中から、三井物産が犯人に支払ったドル紙幣が発見された。また香港にあった日本赤軍関係者の銀行座に入金されたドルも三井物産が支払った紙幣であった。日本の公安当局によると、丸岡は1986年から逮捕されるまで、欧州や東南アジアを渡り歩いた。その足取りと若王子事件で犯人グループから日本国内や在マニラのマスコミに郵送された脅迫状や若王子氏の肉声テープの投函先が完全に一致した。丸岡は最初のテープが投函された1987年1月13日には香港に滞在、最初の脅迫状と二度目のテープが投函された同月27日にはマニラに潜入した後、3度目のテープ投函日の同月30日には香港に移動した。最後の脅迫状投函日の2月23日には再びマニラに舞い戻ったことが、旅券から裏付けられた。[6]若王子氏は1987年3月身代金現金2億円相当の米ドルを三井物産が支払い解放された。またシンガポールに潜伏していた日本赤軍コマンドの戸平和夫と西川純が若王子事件の最中、マニラを訪れ、泉水と会っていた。香港、マニラ、シンガポールに拠点を持つ竹聯幇が日本赤軍の資金調達作戦に協力していた、とみられる。若王子氏が誘拐されたときの荒っぽい手口からフィリピン捜査当局は当初、暴力団の仕業とみていた。当時から金持ちを狙った誘拐ビジネスが横行していたし、複数の現場目撃者から「実行犯の一人は中国人風」という証言が寄せられていた。身代金目的の誘拐の場数を踏んだ暴力団が関与していたから、誘拐と身代金略取が成功した、のではないだろうか。
日本赤軍は、その後も新人民軍幹部を北朝鮮に送り込む手助けをして、北朝鮮と協力して第2、第3の計画を立てた。新人民軍幹部の平壌入りには、日本赤軍が偽造旅券と資金を提供、北朝鮮との連絡役も引き受けた。[7]丸岡は北京を1987年8月24日から9月3日まで訪れているが、北京で北朝鮮関係者や日本赤軍関係者と会い、翌年9月に予定されていたソウル五輪妨害工作を中心に協議したとみられる。
丸岡の北京訪問の3ヵ月後、1987年11月29日にイラク・バグダッド発ソウル行きの大韓航空機ボーイング707がミャンマー沖アンダマン海上空で爆破され、墜落した。北朝鮮工作員、金賢姫(25)と金勝一(70)の犯行だった。二人は日本人の蜂谷真一、蜂谷真由美親子である、と名乗っていた。金賢姫(キム・ヒョンヒ)は朝鮮労働党中央委員会調査部所属の特殊工作員、また服毒自殺した金勝一も同部所属特殊工作員で、マレーシアの北朝鮮大使館に2等書記官として勤務したことがあった(日本政府首脳)という。金勝一は「蜂谷真一」という名義の旅券を所持していた。この旅券は、「宮本明」(本名・李京雨)という北朝鮮工作員が蜂谷真一氏=東京在住=に「蜂谷」名義の旅券を取らせ、宮本こと李が金勝一に渡した。「宮本」は1971年警視庁が摘発した北朝鮮スパイによる事件にかかわっていたが、証拠不十分で逮捕を免れ、行方をくらませている。日本人・田口八重子さん=失踪当時(22)、金賢姫に1981年から83年に平壌トンブクリ招待所で日本語と日本の風習、礼儀を教えたとされる李恩恵(イ・ウンへ)とみられる=拉致事件解明の鍵を握る人物である。真由美・名義の旅券は北朝鮮で1984年7月に旅券用写真を撮影して作成されたものであり、同8月に金賢姫が受け取って署名した時は、既に日本出国とタイ入国のスタンプが押されていた(1988年警察白書)。
金勝一と金賢姫は1987年10月7日、金正日の「親筆指令」を調査部長から受けた。それは「党は南朝鮮側の二つの朝鮮策動とオリンピック単独開催策動を止めさせるために大韓航空機1機を爆破させることを決めた。時期的に重要な今回の行動は世界すべての国家のオリンピック参加意思に冷水をかけることであり、南朝鮮のカイライ政権に致命的打撃を与えることである。必ず成功させ、絶対に秘密が保障されなければならない」[8]とされている。丸岡は金書記の指示を受けて「五輪開催妨害工作」のために、帰国したとみられる。警視庁公安部によると、丸岡は日本赤軍の非公然支援組織「アデフ」(反戦民主戦線)を日本や東南アジア各国に構築する任務も帯びていたという。[9]
1988年4月14日、イタリア・ナポリの米軍クラブで自動車に仕掛けられた爆弾で5人が死亡、17人が負傷した。イタリア司法当局は日本赤軍による計画的犯行であるとして、奥平純三(当時39)と最高指導者、重信房子=2000年11月大阪で逮捕=を指名手配し、逮捕状を出した。
1988年5月6日、「よど号グループ」の柴田泰弘(34)が東京・新宿で逮捕された。柴田は国内滞在中、フランス、英国などへ3回も出入国していた。北朝鮮政府の指示の下にテロ活動に従事していたとみられる。捜査当局によると、柴田は北朝鮮系商社社員の偽造旅券を使用していた。柴田の妻だった(後に離婚)のが有本恵子さんを拉致した八尾恵・元スナック店主である。八尾・元店主は1977年に北朝鮮に渡って柴田と結婚、1983年ロンドンで、語学留学中の大学生、有本さんを北朝鮮に拉致した。
ラングーン事件(1983年)の北朝鮮工作員グループは人民武力部偵察局傘下の「特殊第8軍団」所属工作員で、同軍団は1972年に創設され、それまでのゲリラ養成期間である「124軍部隊」と「第17偵察旅団」、さらに労働党対外連絡部傘下の「対南遊撃訓練所」を統合して組織された。労働党中央軍事委員会直属の「偵察局」の指揮の下で動いていた。偵察局の最高指揮官は金正日書記であった。1980年代に世界を震撼させた北朝鮮の工作は、現在、北朝鮮の国防委員長である金正日が指揮したのは以上の事実から、ほぼ間違いない。
ソ連、中国との国交回復を目指した韓国の「北方外交」はソウル五輪に両国が参加したことで、弾みがつき、1990年9月にソ連と、92年9月に中国と国交を樹立した。孤立した北朝鮮は核開発を進めル一方、外貨獲得のため武器輸出を積極的に進めた。1994年、米国は北朝鮮によるプルトニウム原爆生産を阻止するため、同国攻撃を計画した。94年危機は、米朝枠組み合意によって一旦は収束した。しかし、北朝鮮は2002年10月、ケリー米国務次官補(東アジア・太平洋担当)に対し、核兵器開発を進めていることを認めた。米国は米朝枠組み合意が無効である(パウエル国務長官)と批判した。米国議会で、イラクよりも北朝鮮の方が脅威である、との意見も台頭した。米朝枠組み合意は、北朝鮮の核開発凍結と核査察受け入れと引き換えに、米国などが(プルトニウムを抽出しにくい)軽水炉型原発を提供、軽水炉完成までの期間重油を年間50万d供給することを取り決めた。2003年に予定していた軽水炉完成が遅れ、査察も実現していなかった。
日本赤軍はこの間、幹部が逮捕された。1996年3月、「よど号グループ」の田中義三(47)がカンボジア・スワイエリン州で北朝鮮の大使館員と偽造米ドル紙幣「スーパーK」を大量に持って出国しようとして逮捕された。偽ドル札は北朝鮮で製造されたとみられる。そして2000年11月、中東からひそかに帰国、潜伏していた日本赤軍最高指導者、重信房子(55)が大阪府・高槻市内で発見され、逮捕された。
公安当局は「若王子事件」が86年初めアルジェリアの首都アルジェで結成された「反帝国主義国際旅団(AIIB)」の軍資金調達が目的だった、との見方をした。AIIBは「反帝国主義」を旗印に各国のテログループと連携して武装闘争作戦に乗り出すことを合意したとされる。AIIBはパレスチナ解放人民戦線(PFLP)など中東、欧州の組織をはじめフィリピンのモロ民族解放戦線(MNLF)、日本赤軍などアジアのテロ・ゲリラ組織も参加した。AIIBは東京サミット直後ジャカルタの日米両国大使館に対する迫撃弾攻撃を皮切りに武装闘争を開始、アジアでの第2弾が資金調達のための支店長誘拐事件だった。若王子氏の身代金はAIIB参加組織にも分配され、先進国首脳会議妨害などを目的にローマやナポリでも迫撃弾、爆弾攻撃が繰り返された。[10]
若王子事件は日本赤軍と新人民軍、北朝鮮などのテロ・ネットワークが三井物産という「ワールド・エンタープライズ」を標的にした身代金目的の誘拐事件で、その舞台は「ピープルズ・パワー」(人民の力)によって前政権が崩壊し社会が混乱を極めていたフィリピンであった。三井物産に限らず大商社はフィリピンのような弱体国家を政府開発援助(ODA)がらみで、悪く言えば「食い物」にしていた面がなくはない。日本が援助してつくった火力発電所やダムが地域住民に感謝されるどころか、逆に恨まれる例も少なくない。被援助国の真の利益になるよりも、一部の政治家やブローカーの懐を肥やす結果になるからである。発展途上国相手にODAの開発案件を世話してもうける大商社の利益の上前をはねたのが日本赤軍などのテロ・ネットワークであった。テロの超域ネットワークが世界的企業の超域ネットワークに食いついた事件であったともいえよう。
[1] 「世界過激派事典」 小林幹夫編著 共同通信社 1996年 P29 日本赤軍はレバノン・ベカー平原に根拠地を置いた極左テロ組織。1969年共産主義者同盟(ブンド、共産同)から分裂した共産主義者同盟赤軍派がレバノンに重信房子を派遣し、建設した共産同赤軍派アラブ支部が基礎となって結成された。塩見孝也議長は「北朝鮮、キューバ、アルバニアに根拠地を建設し、そこで軍事訓練や武器の供給を受け、先進資本主義国に進攻し、第三世界の逃走と結合し、世界革命に発展させる」いわゆる国際根拠地建設論を主張した。共産同赤軍派は1972年2月の連合赤軍事件で崩壊、同3月、日本赤軍は同派と決別した。その前、共産同赤軍派の一部が日航機よど号を1970年に乗っ取り、北朝鮮に亡命した。日本赤軍はリビア、北朝鮮から支援を受けていた、といわれる。若王子事件に関与した泉水博と丸岡修らはベカー平原からアジアに拠点を移して活動していた。
[2] 1968年の青瓦台事件(朴正煕大統領暗殺のため北朝鮮民族保衛省偵察局第124部隊が韓国に侵入、首都警備司令部部隊と銃撃戦の末、29人が射殺され、1人が逮捕された)、1974年の文世光事件(在日韓国人・文世光が韓国の国立中央劇場で朴大統領を狙撃、流れ弾が陸英修大統領夫人の頭部に命中して死亡)、1983年のラングーン事件(全斗煥大統領暗殺未遂)、1987年の大韓航空機爆破事件(バグダッド発ソウル行き大韓航空機をミャンマー沖上空で北朝鮮工作員が爆破)は金父子の指導、指示の下で実施された、とみられる。
[3] 1991年1月7日 共同通信配信記事「日本赤軍と共同作戦と発表 若王子事件で実行犯逮捕」。フィリピン国家警察庁は91年1月7日 共産ゲリラ、新人民軍(NPA)の幹部を「若王子事件」実行犯の一人として逮捕した。警察庁は事件がNPAの資金獲得作戦で、日本赤軍が背後で関与していた事実を明らかにした。
[4] 「激震東洋事情」文芸春秋社 文春文庫 1999年 P184
[5] 1988年9月10日 読売新聞 「公安当局ではフィリピンにも勢力を持つ『竹聯幇』組織が、日本赤軍、丸岡修(37)らの指示の下、誘拐実行役として事件に加担した疑いが強いと見て、同組織の活動実態の解明にも力を入れている」と述べている。事件発生当時、在比日本大使館高官は、共同通信記者だった筆者に@ビンドノ地区が日本人観光客や米兵が飲み歩く繁華街マビニの通貨交換所の闇交換レートを決定する「ビンドノ銀行」がある場所であることAビンドノに華人有力者が集まっているB竹聯幇が泉水を保護していたC泉水の妻の姉自宅前に竹聯幇幹部の大型車が停車していたD読売新聞の記事でも指摘された飲食店やゴルフ場などで竹聯幇関係者と会っていたー事実を明らかにした。竹聯幇は台湾だけでなく香港、シンガポール、マニラ、米国など世界各地に支部を持つ「超域暴力団」である。後述する江南暗殺事件実行犯の董桂森は事件後、フィリピンに逃走した。江南暗殺を指示したとみられる蒋孝武ら蒋経国の息子たちは、台湾が大陸に武力解放される場合に備え、フィリピンの離島の一つを買収、その島の警護を竹聯幇に依頼する計画を検討していた、といわれる。竹聯幇は、治安が悪いカンボジア、フィリピンなどを逃亡先、隠れ家として利用していた。
[6] 1988年9月9日 読売新聞 「若王子さん誘拐は日本赤軍の犯行と断定 丸岡の動きと一致 公安当局」
[7] フィリピン当局に逮捕された新人民軍特殊部隊(SOS)副司令官バルヒリオ・デルフィンによると、新人民軍特殊部隊は日本赤軍の手引きで、北朝鮮でゲリラ戦の訓練を受けていた。若王子事件に関与した新人民軍幹部ベロニコ・バガマスバドとフロレンシオ・モンテラの二人も1988年北朝鮮に派遣される予定だったが、直前になって中止されたという。バルヒリオ・デルフィンは87年8月、フェレール自治相を暗殺した犯人で、87年9月から88年11月まで、他の仲間10人と平壌に派遣され、都市ゲリラ訓練を受けた。彼が平壌へ渡るに当たっては、日本赤軍が偽造旅券と資金を提供し、北朝鮮側との連絡役も引き受けた、ことがフィリピン捜査当局の調べで明らかになっている。
[8] 2002年10月1日 思想新聞
[9] 1987年11月27日 信濃毎日新聞 アデフは(ANTIWAR・DEMOCRATIC・FRONT)の頭文字をとったもので、「東南アジアなど一部では既に組織構築が進んでおり、東京サミット期間中の1986年5月に起きたジャカルタの日米両国大使館迫撃弾(発射)事件など計5件のゲリラ、テロ事件で犯行声明した「反帝国主義国際旅団」は「アデフ」の実行部隊とみられる」。丸岡は偽名旅券取得後の87年8月3日から捕まるまでの3カ月半に日本を含め、東南アジアを中心に9カ国、16回の渡航を繰り返していた。丸岡が持っていた自筆の暗号メモによると、「アデフは人民大衆の中に根を張り、ベカー高原(の日本赤軍)を中心に世界に(テロ・ゲリラの)ネットワークを作る」ことを目指していた(1987年11月27日 読売新聞)
[10] 1988年9月12日 信濃毎日新聞