Community News bP5(2003.7)  夏期特集号


働いたら勉強したくなった   名古屋グランパスが来た  スキーだよ全員集合

ドッジDEクイズSHOWで大騒ぎ   安城市民公開講座にコミュニティ政策学部の先生が活躍

世界を舞台にボランティア活動

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働いたら勉強したくなった

社会人を経験した北村君の生活と意見


 海外で活躍するために語学を、と語る北村君社会人として経験を積んで大学に入る学生が最近増えている。欧米では珍しくない勉学スタイルが、日本でも定着しつつある。コミュニティ政策学部一年生の北村健太郎君(二三)もそうした社会人を経験した大学生の一人である。北村君の生き方、学び方を紹介する。
  五年の社会人生活を経て、今春入学した。中学生時代はよく勉強し、将来、大学に進むつもりだった。高校二年になって、勉強に興味をなくした。欠席や、昼からの登校も増えた。友人と夜遊びし、学校へ行かなきゃならない、という気も失せた。友達と遊んでいれば楽しかった。出席日数、成績もぎりぎりで高校を卒業した。「行きたくもないのに大学へ行ってもお金の無駄」と思った。大学の中で何かを見つけようという気がなかった。卒業後二年間、フリーターをした。適当にバイトして、遊ぶカネを稼ぐ「ろくな生活をしていなかった」。自分自身、精神的に追い込まれてきた。
  こんなことではだめだ、と感じた。友人に左官職人がいて、自分も生活を変えるためにやってみようかと思った。とにかく、自分を直したい、変えたいという気持ちが大きかった。最初一年くらいはアルバイトで週五日仕事に行っていた。朝は六時から出かけ、夜は八時くらいに帰宅した。職人の世界は厳しい。アルバイトは「下っ端の下っ端」扱いだった。
 会社には若い人も多く、中学を卒業してすぐに就職した年下の子や、高校を中退して職人になった人もいて、そういう人が朝早く起きてしっかりやっている。友達ももう左官を二年くらいやっていて、ちゃんとした職人さんになっていた。そんな姿をみて「ああ、自分は負けてるなあ。これではだめだ」と思った。給料が安いことが悔しい、とも感じた。幸いこの仕事は楽しかったので、こうなったら若い人の中で一番の職人になろうと思って正社員にしてもらった。それから、自分なりに頑張った。社長さん、年上の職人さん、営業の人など、周りに認めてくれる人が出てきた。とてもうれしかった。仕事も順調で、給料も上がった。
 でもそのうち、迷いも出てきた。自分は、本当は何がやりたいのかを考えるようになってきた。考えてみれば自分は勉強していないなあ、勉強したいなあ、とやっと気付いた。それに、大学に行っている友達の話を聞いて大学生活がいいなあと思うようにもなった。特に、専門的な知識を自分で選んで聴講できる点がいい。でも自分には関係ない、高校を卒業して日も経ち、自分にとっては大学進学なんか終わった話だと思っていた。
  そんなとき、腕の良いカリスマ的職人の方がいて、すごく買ってくれていた。去年末の忘年会で「おれが今まで学んできたことの全てをお前なら三年で教え込めるから、毎日おれについて仕事を覚えろ。一人前にしてやるから。社長に直接お前が頼め」と彼から言われた。とてもうれしかった。この人のことは尊敬していたし。でもそこで悩んだ。ほんとにそこで社長に頼んでいいのかな? 大学に行きたいという気持ちがあった。ほかにもっといろいろな職業、生活、世界を見たかった。迷ったままでは社長さんには頼めない。いろいろな人に相談した。そしてある人から「やらずに後悔しない方が良いよ」と言われた。自分でもそうだなと思い、勉強したい気持ちを一番に考えて、大学進学を決めた。
 最初は保育士を目指し、短大や専門学校を目指したが、面接試験やピアノ経験、年齢などが引っ掛かり、思うようにいかなかった。もう少し自分の関心の内容を考えたとき、自分自身が他の人たちと関わっていくことを考えたいのだと気付いた。そしてパンフレットなどで調べて愛知学泉大学コミュニティ政策学部を見つけ、受験した。入試には面接もあり、来田先生と西山先生が担当されたが、職人時代の話などをとてもよく聞いてくださったのがうれしかった。保育士関係の入試の面接では、話はほとんど聞いてくれず、最初からだめ、という感じだった。そして合格し、高校卒業して五年後に大学に入学することになった。
 仕事をやめるときには、泣けた。自分が仕事を頑張っているのを見て声をかけられたときも泣けたが。明瀬先生が授業で「人生はどれだけ本気で泣けたかで価値が決まる」と言われたが、僕もそうだなと思った。いい言葉だ。
 大学での授業自体は面白いものもあるし、面白くないものもある。僕自身の興味とか、授業や先生と僕との相性とかもあると思う。講義では、先生が話し続けるだけの授業は面白くない。講義中におしゃべりをする学生がいて、先生が注意することで授業が中断するのは残念だ。
  ゼミ・スタイルの授業は好き。でも実際にゼミに出てみると「ほかの学生さんてどうなのかなあ」と思う。「別にけなすわけじゃありませんし、高校を卒業したばっかりだから分からないこともないのだけれど、授業は休みがちだし、発表の分担が決まっているのに来ない人もいるし、来てもやっていない人もいるし・・・どうしてやってないのかを先生が聞くと、分かんない、とか忘れた、とか言う返事で、僕からすれば何で大学に来たの、ということになるんですけど・・・」。
 僕は他大学の授業も聴講していて、名古屋大学で教育心理学を受講している。名大の方が授業中は静かだ。(愛知学泉大学の)敷地がとても狭く、大学が小さいという感じがする。学生の居場所が食堂くらいしかないのが残念だ。それから、学部での友達で車イスを使っている人がいるが、車イスの人にとっての設備が良くないと思う。たとえば、八号館から体育館に行くまで非常に大回りをしなければならない。体育館の二階に上がるときには車イスを持ち上げなければならない。トイレも不便なようだ。
  しかしオフィスアワーの制度はうれしい。先生と話す時間が取れる。(もともと)しゃべるのが好きなので。学生全体の活気はないように感じる。今の1年生で大学生活が「タルい」と言っている人とか、大学に来ていない人の気持ちは、たぶん、前の僕と同じだと思う。とにかく何かを一生懸命にやってみれば、頑張ってみれば、違う世界が見えてくる。これが僕の経験から言えることだ。
 授業では、二、三、四年生の科目は受講できないが、一年生でも聴いてみたい授業がある。市民モデルとか行政モデル、企業モデルといったモデルには、まだこだわってない。
 大学生活では、やりたいと思えることを見つけて積極的に参加していきたい。たとえばボランティアなど。参加すればまた自分の考え方が深くなる。まずは何かに参加していきたい。
 アルバイトは授業をとっていない金曜日と土曜、日曜に左官の仕事を続けている。
楽しく続けているが、腕は少し鈍ったかな? キャンパスで友達をたくさん作って、いろいろとしゃべりたい。
 卒業後は、外国に行ってみたい。海外ではどんな考え方で、どんな生活をしているのか見てみたい。そのためにも語学はもっと頑張らなければ、と思う。

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名古屋グランパスが来た

コミュニティ運営実習

選手の手をとって離さぬ子供立ち「名古屋グランパスだ」―。中日青葉学園(日進市)の園児の目が輝いた。コミュニティ政策学部ならではの授業として学生に人気のあるコミュニティ運営実習。このほど、同学園の子供たちにプロ・サッカー選手がやさしくサッカーを教えるボランティア活動に梁瀬和男教授とともに加藤剛士、中井英貴、永久里史、花井尚の四君が参加した。学生たちは慣れない手つきでコート作りやボールの空気入れなどに汗を流した。
 園児たちは慰問に訪れたサッカーJ1名古屋グランパスエイトの若手六選手に大喜び、楽しいひと時を学生、職員と共に過ごした。
 中日青葉学園は中日新聞社会事業団が経営する施設。不登校児童や家庭的に恵まれなかった子供ひとりひとりの人格を尊重し、社会人になるための知識を身につけさせるためのイベントやクラブ活動を積極的に取り入れている。児童と児童、先生と児童が関わり合い、励まし合って暮らしている。
 最初は外部に閉ざされていたが、子供達に他の社会の人とふれあってもらいたいという学園側の願いから、ボランティア活動の受け入れが始まり「梁瀬運営実習」は毎年、春セメスターに訪れている。
 「梁瀬運営実習」のテーマは「企業の社会貢献活動」。
 イベント責任者の青葉学園、寺井陽一先生は「学園をもっと多数の人に知ってもらいたい、福祉の現場を見て知ってもらいたい、楽しく行事が行えるように」と考え、梁瀬教授からの申し出を歓迎した。
 子供たちからは「運営実習の人はかっこいい」、「もっとしゃべりたかった」、「もっと遊びたかった」といった感想も聞かれた。
 名古屋グランパスエイトの参加選手は次の通り。北村隆二、森敬史、渡邉圭二、深津康太、秋葉竜児、平林輝良寛。

運営実習生 加藤剛士さんの話
 (十分な)仕事が出来たかどうか分からない。今後は、分からない事は先生に聞いてもっと役に立てるようになりたい。事前学習の四月二十六日に訪れた時と違って今回はお手伝いが仕事で、子供を見ているだけではすまないので難しかった。

梁瀬教授の話
 学生たちは初めてなのでどうしていいか戸惑っていたようだけれどこれから、繰り返し接し、勉強していく事で慣れるだろう。これからに期待したい。
 

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スキーだよ、全員集合 合同ゼミ合宿

「ゼミの枠を超えてスキーやボードで遊ぼう。教員も学生も全員集合」―を目標に、岐阜県ダイナランドスキー場に二月十七日から二日間、コミュニティ政策学部の教員学生四十五人が集まった。
 来年度からコミュニティ政策学部はコミュニティ・スポーツ・リーダー(CSL)を養成する。この企画はCSL養成を担当する來田享子・助教授のゼミに所属する学生が実施した。
 CSLを目指す学生を受け入れの準備活動の合宿で、学内でのスポーツ・イベントの企画・運営、それへの参加の機会をつくるのが目的。






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ドッジDEクイズSHOWで大騒ぎ

男女入り乱れて大熱戦の「ドッジDEクイズSHOW」新入生を歓迎しようー。コミュニティ政策学部の基礎演習ゼミ対抗スポーツ大会(学生会主催)が桜の花咲く四月、体育館二階で開かれた。男女の別なく参加できる新スポーツ「ドッジDEクイズSHOW」など競技種目は学生会が考案した。新入生の半数以上が参加し、会が進むとすっかり、うちとけて歓声が館内に響いた。
 「ドッジDEクイズSHOW」はドッジボールで敵方を倒すと、クイズの解答権を獲得し、正解を答えれば、点を獲得でき、その点差を競うゲーム。ゲームが始まると、学生の人間性が如実に現れ、女子学生に緩い球を投げる紳士的学生がいる一方、勝負のために容赦ない速球を繰り出す「暴れん坊」もいた。
 優勝チーム(高橋ゼミ)には学部長杯が贈られた。

試合を投げず、輝く学生
参加八チームの中で最下位となったゼミは、ゼミ生の半数しか参加しなかった。得点競争のこのゲームでは明らかに不利。敗色濃厚となると、途中退場する学生も。そうしたなかで「衆寡(しゅうか)敵せず」を承知の上で負け戦に果敢挑む少数の学生がいた。教室では物静かな彼らが闘志をむき出しにして戦った。倒れるまでファイティングポーズをとり続けた彼らは夕闇に輝いていた。

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安城市民公開講座に
コミュニティ政策学部の先生が活躍

景気回復の見通しを語る明瀬教授


安城市民公開講座一般教養コースが同市文化センターでコミュニティ政策学部の協力の下に五月開講した。毎月一回のペースで開かれる。トップバッターの明瀬政治教授は「景気はどうしたら回復できるか」の題目で黒板に景気の山谷を図示して、熱血授業。日本経済は2005年頃に長期波動の底から抜け出し、回復に向かう。技術革新に基づく生産性の向上が重要、と詰め掛けた市民に熱く語りかけた。2回目は「地方分権と市町村合併」という身近な題目で、渡名喜庸安教授。三回目は來田享子助教授がお得意の「地域スポーツ活動入門」。4回目以降は村林聖子、都築くるみ、山崎丈夫の各先生が登場する。



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世界を舞台にボランティア活動

ネパールに学校建設

世界に飛び出してボランティア活動―。安城学園は九十周年記念事業として、ネパールに小学校を建設した。学生と市民有志も加わった学園代表団(団長・神谷欣吾・岡崎城西高校教諭)は三月下旬、イラク戦争の戦火をかいくぐるようにしてネパールを訪問した。首都カトマンズからコズミック・エアの老朽機でヒマラヤ山脈を眺めながらポカラ入りし、そこから目指すラハチョーク村へバスで向かった。村に通ずるトリブバン国道は狭く対向車とすれ違うのに難渋。村の手前で下車、登山を開始した。
 ガンダキ川はマチャプチュレ(約七、〇〇〇b)に源を発し、ガンジス川となってベンガル湾に流れ出る。渡る鉄橋の踏み板は随所で欠落。はるか下を流れる川は渦巻いて白く泡立ち、この日、起床午前四時の神谷教諭の足がすくんだ。
 崖の上で一休みし、もう一山越えたところに、ラハチョークはあった。ホルンやトランペットのような音色がなり響き、村人総出で一行を迎えた。白とグレイに塗り分けられたジャナ・ジャガラン小学校が姿を見せた。「ナマステ」(こんにちは)、「ナマステ」−と生徒たちが声をかけてくる。「ネパール・日本、友情の学校」と題した銘板が英文で校舎壁面に埋め込まれてあった。
この校舎は日本国愛知県安城学園の教師並びに学生とコピラ・ネパール(NGO)とラハチョーク村住民の真摯な協力によって建設された。   2003年3月25日  ジャナ・ジャガラン小学校
 
 参加した学生たちはパソコン、衣類、学用品、楽器を運び込んだ。書道、折り紙、リコーダーの即席教室も開かれた。大人も子どもも唄とダンスに興じる一幕も。コミュニティ政策学部が託した中古のラップトップ・コンピュータは神谷教諭からコピラ・ネパール代表にパーティの席上手渡され、丁重な謝辞があった。
 コミュニティ政策学部でも海外協力ボランティア活動で単位が取得できるようになった。「国際ボランティア」の称号取得に結びつくコミュニティ政策学部海外研修プロジェクト「コミュニティ海外研修―フランスのコミュニティを知る」(詳報は別添パンフレットに)が二〇〇四年三月に実施される。受身の学習から能動的学習に。自己変革は他人に強制されるものではない。セーヌ川のほとりで「大河の一滴」である自分を見つめなおせば、飛躍の手がかりがつかめるかもしれない。
 

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